「小さな声」を、「やってみた」ことで「小さい声」の仮設が成り立たないことから次の仮設へ。
演出からの言葉で、「どうしてもあってしまう脚本の設定」にとらわれ、「芝居」をしてしまうことに流れていたと思うが
それも、もう 「芝居をやってみた」という「やってみた」段階を終え、
各自の「歩行」「呼吸」「重心」というものに迫り、再び「緊張感」と「リズム」と「テンポ」で場を成立させる方向性へ。
疑問があったので、演出に聞いてみた「音楽と芝居の迫り方の違いについて」。
-音楽は感覚で処理する、音楽は日常にはない。
才能の問題にすると、つらいところはある。
…なるほどなーと。
年末最後の稽古。稽古終わりに忘年会。
12/14の稽古の後、民俗学のことにふれ、TABOOとはなにか?と、切りだし、
・クロード・レヴィ=ストロース「悲しき熱帯」(フランスの民俗学の方…)
→TABOOの位置づけ
・ソシュール 「言語論」 言葉が生まれてから、概念が生まれる
・フロイトのエディプス・コンプレックス
を経て、
「何をするのか」「何をしないのか」
「決めたことを積み上げるのか」「積み上げないのか」
で、
TABOOとは、制度であり、社会的な概念、構造、倫理観…
「とりあえず、やってみるのも方法論」
となった話でした。
要するに、先週やってみた、小さい声でというのは、「方法」と「戦略戦術」には足りえない。
やってみたら、やったみたという事実の上にまた、それを通り過ぎて次を
「やってみる」
今年の5月に宮崎の受け入れをやってくださった、
小野さんがブログに感想をあげてくださいました!
遅くなりましたが、リンクをはっておきます。
gooブログ「市街・野 それぞれ草」
●未知座小劇場宮崎公演 非物語性の物語(2014-05-20)
●未知座小劇場宮崎市公演「井筒」を終わって(2014-05-17)
要するに、重心と呼吸ー。
磯笛もそのひとつ。
どのような重心の置き方にするのか、どのように呼吸するのか、
意識して舞台に立つと、ふつうのやり方すら忘れる。
「女殺油地獄」は、もう二ヶ月くらい役をローテーションして
(15分くらいのシーン)をやっていて、
本日は、「人が人を殺す」ということにせまる仮設の一つとして、
小さい声で通しをした。
河野さんの話で、出てきたのが「磯笛」
(いそぶえ【磯笛】水中での仕事を終えて,水面に顔を出した海女の呼吸が口笛のように鳴るもの。※辞書より)
無防備な状態ではなく、解放された状態でもなく…、
どのような呼吸を獲得し、舞台の上に「ある」こと、「存在すること」…。
などの話が行われた(ような。いろいろあったので。)
稽古で話したことを忘れないように、日誌として残しておきます。